翻訳に命を懸けた聖書翻訳家「ウィリアム・ティンダル」

いまでは世界中のほとんどの人が母国語で聖書を読むことができますが、聖書を読むことはおろか、翻訳することが禁じられていた時代があったといいます。そんな時代に、命の危険を顧みずに聖書を翻訳した人物がいました。今回は、聖書翻訳家のウィリアム・ティンダルをご初回します。

聖書を英語に翻訳するために奔走

ウィリアム・ティンダルは、1494年にイギリス、恐らくグロスターシャーで誕生しました。オックスフォード大学で教育を受けたティンダルは、21歳のときに文学修士の学位を取得します。ケンブリッジ大学に移動した後も研究をつづけた彼は、そこでヒューマニスト学者のグループに参加し、聖書こそが教会の教義を決定するものであり、すべての信者が母語で聖書を読めるようにならなければならないと考えるようになりました。

ケンブリッジを離れた後、グロスターシャーにやってきたウィリアム・ティンダルは、ジョン・ウォルシュの息子たちの家庭教師として2年間を過ごします。当時の教会では、5世紀にヒエロニムスが翻訳したウルガタ訳のラテン語聖書が用いられており、英語を話す平信徒たちが読めるものではありませんでした。ウィリアム・ティンダルは、ヒエロニムスも母語に聖書を翻訳したのだから、日常会話で英語を話す一般の人々のために聖書を英語に翻訳したいと願うようになります。

その当時、聖書を翻訳することは固く禁じられていました。ジョン・ウィクリフの英語訳聖書を頒布したロラード派の巡回説教師たちの多くは異端者として捕まり、火あぶりにされました。しかし、ティンダルはギリシャ語で書かれた聖書を英語に翻訳する許可を得るために、ロンドン司教カスバート・タンスタルのもとを訪れます。

ティンダル訳の完成

ティンダルは教養のあるロンドン司教なら翻訳を許可してくれると考えましたが、結果は期待外れに終わりました。カトリック教会はマルティン・ルターの思想を支持する人物を排除することに躍起になっており、ティンダルもルター派のひとりとみなされてしまったようです。グロスターシャーで家庭教師をしていたときに、ティンダルは地元の僧職者たちがいかに無知であるかを暴きました。さらに、「神の法律よりもローマ教皇が定めた法を優先する!」と述べた高位僧職者を痛烈に批判したこともあったといいます。

こうした背景もあり、聖書の英語翻訳を許されなかったティンダルはロンドンに1年間留まった後、イギリスを去る決意をします。ドイツに向かったティンダルは、ケルンのペーター・クベンテルに翻訳原稿の印刷作業を依頼することにしました。ところが、英語の聖書が印刷されていることを反対者たちに知られて、作業は中断してしまいます。追われる身となったティンダルと助手のウィリアム・ロイは、ウォルムスに向かってその地でティンダル訳を完成させ、新約聖書の初版を6,000部作成することに成功しました。

正確に翻訳したために命を落とす

ティンダル訳聖書は友好的なイギリス商人たちの助けを得て、イギリスに送り込まれます。ところが、僧職者たちは血まなこになってそれらの聖書を探し出し、焼き捨てることに精を出しました。彼らがティンダルが翻訳した聖書を平信徒に読ませたくなかったのは、ティンダル訳聖書が「正確に翻訳された」ものだったからです。翻訳家としてのティンダルは非常に優秀で、ギリシャ語を正確に理解して、正しく意味を英語で伝えることができました。

アントワープに移動したティンダルはヘブライ語聖書の翻訳作業を続けながらも、貧しい人々や病気の人々の世話を行ったといいます。しかし、イギリス人のヘンリー・フィリップスに裏切られて拘束されたティンダルは、裁判で有罪判決を受け、1536年10月に火刑に処されました。

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