日本文学の優れた翻訳家「エドワード・サイデンステッカー」

エドワード・サイデンステッカーは、日本の古典文学および現代文学の優れた翻訳家の一人です。源氏物語や雪国を英語翻訳したことで海外ではよく知られていますが、日本での知名度はそれほど高くないようです。そこで今回は、エドワード・サイデンステッカーがどのように翻訳の世界に入ったのかをご紹介します。

徴兵を逃れるため日本語学校へ

1921年、エドワード・サイデンステッカーは、アメリカ・コロラド州キャッスルロックにある小さな牧場で生まれました。日本の文学を英語翻訳したことを考えると、日系アメリカ人なのかと思う人もいるかもしれません。しかしながら、父親はドイツ系、母親はアイルランド系で、日本とは縁もゆかりもない出自でした。

高校時代、運動神経も機械を扱う才能もないことを自覚した彼は、ひたすら文学の世界に没頭します。経済的な理由で第一希望の大学入学を断念し、コロラド大学ボルダー校に入学。家族からは、祖父や叔父の跡を継いで法律を学ぶよう期待されていましたが、経済学を専攻しました。ところが、彼の経済学専攻は家族の意に沿わなかったため、後に英文学専攻に転向します。

第二次世界大戦真っ只中、なんとか徴兵を回避しようと考えたエドワード・サイデンステッカーは、カリフォルニア大学バークレー校からコロラド大学ボルダー校に移転した日本語学校への入学を決意。まったく日本語ができませんでしたが、14ヵ月の日本語学習集中プログラムを終了後、日本語の新聞を読めるまでになります。日本語の語学学校のプログラムを修了しても依然戦争は続いており、エドワード・サイデンステッカーは海兵隊に入隊することになりました。

日本語を使う仕事に携わる

海兵隊の基礎訓練を受けた後、エドワード・サイデンステッカーはカリフォルニアで初めて日本人捕虜と出会い、生きた日本語に触れます。1944年には、ハワイ諸島への転属となり、日本人捕虜の尋問のほか、日本語文書の翻訳を担当するようになりました。しかし、サイデンステッカーは、日本語を使う自分の仕事に嫌悪感を抱くようになります。1945年2月、エドワード・サイデンステッカーは硫黄島へ向かった後、再びハワイに戻ることに。その間に戦争は終結を迎え、彼は長崎県佐世保市にて戦後処理を行いました。

除隊後はコロンビア大学で修士号を取得し、米国外務省に入省します。ところが、外務省の仕事が天職ではないと悟った彼は辞職し、東京大学で日本文学を学ぶ道を選びました。1950年代半ばには、上智大学でアメリカ文学と日本文学の講師を務めていましたが、アメリカの出版社から日本文学の翻訳依頼を受けます。

1962年には日本を離れ、スタンフォード大学で日本語の教授として教鞭をとりました。その後も、ミシガン大学やコロンビア大学の日本語教授に就任し、定年退職後にはハワイと日本を行き来する生活をはじめます。ところが、日本定住を決めた矢先、散歩中に転倒したエドワード・サイデンステッカーは、このときの怪我がもととなり86歳でこの世を去りました。

サイデンステッカーと翻訳

サイデンステッカーが翻訳した日本の文学作品は、100を超えるといいます。中でも、彼が15年もの年月をかけて翻訳した「源氏物語」は、秀逸な翻訳だと評判です。ほかにも、川端康成の著書を精力的に翻訳し、1968年に川端康成が日本人として初めてノーベル文学賞を受賞することに貢献しました。

川端康成は、自らがノーベル文学賞を受賞できたのはサイデンステッカーのおかげとして、賞金を半分渡したというエピソードが残されています。日本文学を英語に翻訳し、世界に紹介したサイデンステッカー。サイデンステッカーの翻訳は、原作者が伝えたかった感情やニュアンスを感じることができる翻訳だと、高く評価されています。

  

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