翻訳界の神童?「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」のお話

ラテンアメリカ文学と聞くと、ガウチョ文学を創始したホセ・エルナンデスやルベン・ダリオなどを思い浮かべる人も多いでしょう。しかし、ラテンアメリカ文学を語るのに、「ラテンアメリカのフランツ・カフカ」である、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの存在を忘れてはいけません。今回は、すばらしい小説家であり、優れた翻訳家であったホルヘ・ルイス・ボルヘスについてご紹介します。

優秀な翻訳家だったホルヘ・ルイス・ボルヘス

小説家や詩人の中には、翻訳家としてすばらしい才能を発揮する人が少なくありません。希代の小説家ホルヘ・ルイス・ボルヘスも、その一人に数えられます。アルゼンチンの中産階級の家庭に生まれたボルヘスは、幼い頃から翻訳家としての才能を発揮。9歳のときには、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」をスペイン語に翻訳しました。その翻訳文はスペイン語の日刊紙である「エル・パイス」に掲載されましたが、周囲の人々はボルヘスの父親が翻訳したと勘違いしていたという逸話が残されています。

成長してからも、エドガー・アラン・ポー、ウィリアム・フォークナー、ラドヤード・キップリング、ウォルト・ホイットマン、ヴァージニア・ウルフ、アンドレ・ジッド、ヘルマン・ヘッセ、フランツ・カフカなどさまざまな作家をスペイン語圏の読者のために翻訳しました。ボルヘスの翻訳は、彼曰く「創造的な背信行為」の原則に基づいており、原文から大きく逸脱しないように注意しながらも、スペイン語を理解する読者のためにわかりやすい翻訳を心掛けていたことがわかります。

成功のカギは「読書家」

ボルヘスは弁護士の父とイングランド人の血を引く母のもとで育ち、家庭ではスペイン語と英語が話されていました。また、文学者や詩人を輩出した家系であり、家族が大変な読書家であったという背景が、彼の翻訳家としての能力を引き出したと考えられます。とくに読書家であった家族の影響は大きく、例に漏れず彼自身も読書家となり、偉大な作家であり翻訳家となる将来の土台を形成していきました。

幼いころから5,000冊以上もある父親の蔵書を自由に読み漁っていたボルヘスは、スペイン語よりも英語のほうが得意だったようです。父親の教育方針により、彼は9歳までイギリス人の家庭教師から勉強を教わっていました。そのようなこともあってか、マーク・トゥエインの「ハックルベリー・フィンの冒険」やH.G.ウェルズやディケンズの小説だけでなく、原文がスペイン語のミゲル・デ・セルバンテス著「ドン・キホーテ」までを英語で読んでいたといいます。

地元の学校に通うようになったボルヘスは、スペイン語も英語同様に流暢でした。アルゼンチンでは、牧畜業に従事している人のことをガウチョと呼びます。ガウチョ文学とは、伝統を重んじながらも社会に縛られない生き方をしている彼らのことを、新しい国家の精神を反映する存在として描いた小説のこと。ボルヘスは、スペイン語で書かれたこれらの作品を読んでいました。

ラテンアメリカ文学の世界に貢献

15歳になったボルヘスはスイス・ジュネーブに移り、そこでフランス語とドイツ語を学び、ジュネーブ・カレッジで学士号を取得しました。1921年にアルゼンチン・ ブエノスアイレスに戻ったボルヘスは、故郷の美しさを詩の中で歌いました。1923年には、最初の出版物である「ブエノスアイレスの熱狂」を出版します。

1937年、生活のために図書館に司書として勤務。ところが翌年、窓に頭をぶつけたボルヘスは、生死の境をさまよう大怪我を負います。なんとか回復できたものの、言語能力の低下を恐れたボルヘスは、試しに短編小説の執筆に取り掛かります。こうして、「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」や「バベルの図書館」などの短編作品が誕生しました。

ブエノスアイレスの図書館司書の職を解かれた後、講演や執筆で生計を立てたボルヘスは、1950年にアルゼンチン作家協会会長に選出されます。その後、国立図書館長に就任したほか、ブエノスアイレス大学の英米文学の教授として教壇に立ちました。遺伝的な視力の病気のため全盲になったボルヘスでしたが、周囲の人の協力を得て、口述筆記により小説を書き続けました。

  

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