『解体新書』の翻訳作業に携わった杉田玄白はオランダ語ができなかった?

翻訳家は語学のプロであるべきですが、昔はそうではありませんでした。杉田玄白は「解体新書」を出版し、日本の医学を大きく発展させた人物として知られています。ところが、彼はオランダ語ができなかったのだそう。今回は、「解体新書」の翻訳にまつわる面白い話をご紹介します。

オランダ語習得をあきらめた杉田玄白

杉田玄白とは、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』を翻訳し、『解体新書』として刊行した人物であると学校の授業で習った人は多いでしょう。この事実だけを見ると医者であり蘭学者でもあった杉田玄白は、さぞかしオランダ語が得意だったのだろうと思うかもしれません。しかしながら、彼にオランダ語の知識はありませんでした。

杉田玄白は江戸幕府の通詞(通訳者)だった西善三郎にオランダ語を教えてほしいと頼み込みますが、一朝一夕で習得できるものではないと断られ、あっさりオランダ語の勉強をあきらめてしまいます。オランダ語ができなかった杉田玄白ですが、なぜ「解体新書」を刊行することができたのでしょうか?

『ターヘル・アナトミア』との出会い

1771年、杉田玄白はオランダの医学書『ターヘル・アナトミア』と出会って感銘を受け、ぜひ日本語に翻訳したいと熱望します。ところで、『ターヘル・アナトミア』とは扉絵に書かれたラテン語のタブラェ・アナトミカェに由来しており、杉田玄白はこの医学書をターヘル・アナトミアと呼んでいました。

『ターヘル・アナトミア』はオランダ語ではなく、オランダ語の正式タイトルは「Ontleedkundige Tafelen」だったといいます。杉田玄白が手に入れたこの医学書は1722年に出版されたドイツ語の原書「Anatomische Tabellen」を、オランダ人医師のヘラルト・ディクテンがオランダ語に翻訳したものでした。杉田玄白らは原書を翻訳したのではなく、翻訳本をさらに翻訳する、いわゆる重訳に携わったのです。

杉田玄白は中川淳庵、桂川甫周、前野良沢らと翻訳に着手します。彼らの中でオランダ語を知っていたのは前野良沢のみ。そのため、翻訳作業の中心的存在になった前野良沢でしたが、彼もオランダ語は100単語ほどしか知らず、当時は蘭蘭(オランダ語の国語辞典)辞典しかなかったため、翻訳作業は難航を極めました。

情熱が実を結ぶ

医学者仲間と翻訳作業に没頭する杉田玄白でしたが、オランダ語ができない彼は西洋医学の情報を収集することで翻訳に貢献します。これは現在の翻訳家にも通じることですが、語学がどんなに達者でも、専門知識が伴っていなければ良い翻訳に仕上げることはできません。こうして、4年近い歳月をかけて完成させた『解体新書』でしたが、翻訳作業で活躍した前野良沢は翻訳が完璧ではないことを理由に、出版物に自分の名前が載ることを許しませんでした。

1774年に出版された『解体新書』により、日本の医学は進歩します。杉田玄白らは翻訳作業に当たり、神経、軟骨、筋、動脈、頭蓋骨などの日本語を生み出しました。とはいえ、実際には完璧な翻訳からはほど遠く、オランダ語の意味を汲み取って訳されたり、日本語への翻訳が無理だと判断された単語はそのまま残されたりしたため、誤訳が多かったのだそう。

とにかくいち早く『解体新書』を世に送り出したかった杉田玄白は、弟子の大槻玄沢に訳し直しを命じます。そうして完成したのが、1826年(1798年には翻訳は完了していた)に刊行された『重訂解体新書』でした。語学に精通していたわけではありませんでしたが、杉田玄白の正しく役立つ知識を世間に伝えたいと願う情熱は、語学に堪能ではないというハンデをさえ乗り越えることができたといえるのではないでしょうか。

  

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