フランス語翻訳家としての中原中也

わずか30歳でこの世を去った夭逝の天才詩人である中原中也。酒乱でなかなかに癖の強い人物ですが、じつはフランスの詩人であるアルチュール・ランボーの詩を翻訳したことでも有名です。今回は、フランス語翻訳家としての中原中也についてご紹介します。

フランス語を学ぶまで

西洋の詩が日本に紹介されたのは、明治時代初期のことでした。明治時代中期から後期にかけては、日本語で詩を書くことが盛んになり、すばらしい詩人たちが誕生します。中原中也も、そんな日本語での詩作が盛んだった時代に生まれた詩人です。中学時代から短歌を詠んでいた中原中也でしたが、文学にのめり込みすぎて学業不振に陥ります。

それが主な原因となり地元である山口県・山口中学の進級に失敗した彼は、京都の立命館中学校に転入することになりました。京都で下宿生活を送るようになった中原中也は、1923年秋、古書店で一冊の詩集を手に取り、その内容に衝撃を受けることに。その詩集とは、ダダイズム詩人である高橋新吉の詩集「ダダイスト新吉の詩」でした。すっかりダダイズムの虜になった中原中也は、自らも詩を作るようになります。

1924年には詩人の富永太郎と交友を持つようになり、ますます詩作に励むようになった中原中也。それだけではなく、富永太郎の影響でボードレールやアルチュール・ランボーといったフランス象徴派詩人の作品に触れるようになります。結核治療を終えて東京に帰る富永太郎を追うごとく上京した中原中也は、1926年に日本大学予科文科に入学しますが半年もしないうちに退学。その後、アテネ・フランセでフランス語を学び、1930年に中央大学予科に編入しましたが、 翌年には中央大学予科に籍を置いたまま東京外国語学校専修科仏語部に入学し、フランスへの留学を夢見るようになります。

ランボーの翻訳家として第一人者に

1933年に東京外国語学校専修科仏語部を卒業した中原中也は、自分の詩集を出版するために資金集めに奔走します。ところが、同年冬に三笠書房からアルチュール・ランボーの詩の翻訳本『ランボオ詩集 -学校時代の詩 』を出すことになり、フランス語翻訳家としてその名を知られるように。いまでこそ中原中也の詩の才能は広く知られており、中学校・高等学校の国語の教科書に詩が載せられていますが、生前はフランス語翻訳家、とくにランボーの翻訳家の第一人者として有名になります。

1934年に結婚後、ようやく自身の詩集である『山羊の歌』を出版して好評を得るも、詩人として家族を養っていくのは難しく、中原中也の一家は実家からの仕送りで生活していました。1936年には山本文庫(山本書店)から翻訳本『ランボオ詩抄』を出版することになって、ようやく印税収入を得ます。ところが、詩人としても翻訳家としてもこれからというときに、まだ幼い長男を小児結核で亡くし、中原中也は精神的に大きな打撃を受けます。精神的にも肉体的にもボロボロになった中原中也でしたが、翌年9月には野田書房から翻訳本『ランボオ詩集』を刊行。自らの第二詩集の原稿を完成させ、小林秀雄に渡してから約1ヵ月後にこの世を去りました。

翻訳家としての信条

中原中也以外にも、文芸評論家で作家の小林秀雄、詩人でフランス文学者の堀口大學など大勢の翻訳家がランボーの詩を翻訳しています。中原中也は、「世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。」と述べ、語呂よりも語義、語義よりも語勢を大切に逐字訳を行いました。

詩人として誰よりも言葉選びにこだわり、ランボーの思想にまで思いを馳せて翻訳に活かした中原中也。詩人としての才能に恵まれた中原中也でしたが、翻訳家としても一流の人物であったことがよくわかります。

  

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