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【明治時代は翻訳黎明期】あの日本語はこうやって誕生した!

諸外国との交流が盛んになった明治時代において、翻訳は日本の近代化を促進するのに欠かせない存在でした。翻訳需要が高まった明治時代、新しい文化と共にたくさんの新しい日本語が誕生します。今回は、明治時代の日本語と翻訳についてご紹介します。

現代の日本語の基礎ができた明治時代

明治時代には、書き言葉(文語体)と話し言葉を一致させて理解しやすい文章を書くことを目的とした言文一致運動が起こりました。こうして口語体が誕生したおかげで、難しくて理解しにくい文語体で書かれた書物が口語体で書かれるようになり、識字率が一層高まります。 鎖国令が敷かれていた江戸時代は、数百もあった藩がひとつの国であり、藩内では「お国言葉」が話されていました。このお国言葉のせいで、同じ日本人であったとしても、コミュニケーションがうまく図れないこともあったのだとか。また、生まれた場所や身分、教養が異なることで、同じ日本語を話す民族であったとしても大きな言語格差がありました。明治時代には、富国強兵政策の一環として、この言語格差を埋めるために多大な努力が払われます。いまわたしたちが使用している日本語は、上田万年や二葉亭四迷ら学者や作家たちの尽力の上に成り立っているといえるでしょう。

翻訳に四苦八苦?

明治時代、文明開化につれて翻訳需要が高まります。外国の文化と共に、たくさんの外国語が日本に入ってくるようになりました。現在は、翻訳を専門に行う翻訳家が独立した職業となっていますが、明治時代には主に作家や学者たちが翻訳家として活躍します。とくに作家の中には優秀な翻訳者も多く、外国語に堪能な彼らは外国文学の影響を受けながら自らの創作活動に励みました。

しかし、外国語に堪能だったとはいえ、すんなり翻訳が行えるわけではありません。外国の考えを表現する適切な日本語がないことも多々あり、四苦八苦しながら翻訳が行われていたといいます。その過程において、新しい「和製漢語」がいくつも誕生しました。

例えば、「美術(art)」、「文化(culture)」、「文明(civilization)」、「社会(society)」、「科学(science)」、「空間(space)」、「時間(time)」、「恋愛(love)」といった、現在でも普通に使用されている言葉たちが次々と生み出されたのです。これら明治時代に新しく生まれた日本語は、新聞や小説によって世間一般に広く浸透していきました。

この時期に生まれた「和製漢語」が中国へと逆輸入をされました。現在中国語には多くの「和製漢語」が使用されております。ほんの一部ですが、「不動産」「不景気」「常識」「法律」「概念」「哲学」「民族」「文明」「思想」「共産主義」などがあり、中華人民共和国の国名で使われている「人民」も「共和」も日本から中国へ渡った言葉です。

野球と正岡子規

正岡子規といえば、明治時代を代表する歌人です。近代文学の土台を作ったとされる正岡子規は、国語学研究家として近代日本語の基礎作りに貢献した人物で、主語、目的語、述語の日本語文型の基本形を作り上げたといわれています。

松山藩士の家に生まれた正岡子規は政治家として立身しようと考えますが、旧幕府側に付いた松山藩出身者が新政府で要職に就くのは難しいと悟り、文学の道に切り替えます。東大予備門では夏目漱石と同窓で、帝国大学では正岡子規は国文科(哲学科から編入)、夏目漱石は英文科で学びます。お互いの才能を認め合った彼らは、正岡子規が34歳の短い生涯を閉じるまで親交を続けました。

1872年(明治5年)、第一大学区第一番中学で教壇に立っていたアメリカ人教師のホーレス・ウィルソンが野球を伝えます。正岡子規は野球が大好きで、幼名の「升(のぼる)」をもとにした、「野球(のボール)」という雅号を使用したこともあります。百以上もの雅号を使用した正岡子規ですが、夏目漱石の「漱石」もじつは正岡子規の雅号のひとつです。

正岡子規が「野球(のボール)」の雅号を使用したのは1890年(明治23年)でしたが、野球(baseball)という言葉は、1894年(明治27年)に野球選手で教育者でもあった中馬庚(ちゅうまんかなえ)によって正式に日本語訳されたと考えられています。 大学中退後、新聞記者になった正岡子規は、野球の来歴やルールを解説します。こうして正岡子規は、「打者」、「走者」、「直球」、「飛球」、「四球」、「死球」など現在でも使用されている野球用語を翻訳しました。

  

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