翻訳者としての二葉亭四迷が一流だった理由

肺病を患い、特派員として派遣されたロシアからの帰国途中の船上で息絶えた二葉亭四迷。小説家でジャーナリストでもあった彼には、翻訳者としての顔も持っていました。日本近代小説の発展に寄与した人物としてのイメージが強い二葉亭四迷ですが、今回は、翻訳者・二葉亭四迷の翻訳についてご紹介します。

ロシア文学に出会うまで

二葉亭四迷(本名:長谷川辰之助)は、尾張藩士で鷹狩り供役であった父・長谷川吉数と母・志津のもとに生まれます。幼いときから勉学に励み、7歳の頃にはフランス語を学びました。後に、軍人を志すも陸軍士官学校に不合格になり、外交官を目指すために東京外国語学校に入学します。

しかし、ロシア語科に進学した二葉亭四迷はロシア文学に夢中になり、文学しか眼中にない状態に。19世紀のロシアといえば、トルストイやドストエフスキーといった文豪たちが活躍した時代で、ロシア文学の黄金期に当たります。二葉亭四迷がロシア文学にのめり込んでいったのも無理はありません。

逐語訳から意訳へ

二葉亭四迷が小説家として活躍したのは、ごくわずかな期間でした。彼の処女作「浮雲」は言文一致体(口語体、話し言葉で書かれた文体)で執筆され、日本近代小説の礎となった作品です。しかし、狂おしいほどの文学への情熱は徐々に冷めていき、彼自身の作品は片手で数えられるほどしか存在していません。一方、翻訳した本やエスペラント語に関する本は多く、小説家としてよりも翻訳家として才能を発揮しました。

逐語訳とは、原文を頭から語順通りに翻訳することですが、二葉亭四迷は逐語訳で翻訳を行ったこともありました。逐語訳にこだわるあまり、ピリオドやコンマの位置まで原文通りでないと気が済まないこともあったのだとか。これは、彼が常に原文に忠実であることを念頭に置いていたからにほかなりません。

しかし、二葉亭四迷はロシアの詩人で、名翻訳家であったヴァシーリー・アンドレーヴィチ・ジュコーフスキーの翻訳に憧れていました。ホメロス作「オデュッセイア」やドイツのファンタジー小説「ウンディーネ」のロシア語訳などを手掛けたジュコーフスキーですが、彼の翻訳本は原作以上の仕上がりだといわれています。ジュコーフスキーの翻訳はいわば意訳で、原文とは形を異にしながらも、そこに含まれる詩形はそのまま発揮する方法を取っていました。

二葉亭四迷は自らの筆力が欠けているため、意訳をするのは難しいと考えていたのだそう。ところが、彼は逐語訳の限界を知り、原文に忠実であるということは「形」にこだわることではないことを理解していくことになります。

名翻訳「死んでもいいわ…」

意訳のすばらしさを認識しながらも、すぐに逐語訳から移行できる訳ではありませんでした。ときには、なめらかな日本語とギクシャクした日本語が入り混じった翻訳作品になってしまったことも。しかしながら、意訳と逐語訳の間を行き来したことが、言文一致体という新しい文体を世に送り出すきっかけになったことを考えれば、彼の翻訳への取り組みはどの期間においてもまったく無駄なものではなかったといえるでしょう。

トルストイやツルゲーネフ、ゴーゴリなどの作品を翻訳した二葉亭四迷は、翻訳家として成長を遂げ、名翻訳を残しました。イワン・ツルゲーネフの自伝的作品「片恋(原題はアーシャ)は、ひとりの青年「私」と若い女性アーシャとの恋物語です。「私」がアーシャにキスをする際に、彼女が「Yours…」と吐息と共に囁きくシーンがありますが、二葉亭四迷は「あなたのものよ…」とは訳さず、「死んでもいいわ…」と翻訳しました。

「死んでもいいわ…」は、情熱的で恋に身を焦がすアーシャという女性を大変よく表している訳になっており、これが名翻訳と呼ばれる所以です。確かに、原文通りの「あなたのものよ…」という訳では弱々しい印象を与え、アーシャという女性の本質を表しきれないでしょう。自分の筆力に自信が持てなかった二葉亭四迷は、この名翻訳を生み出した時点で、名翻訳家へと生まれ変わったといっても過言ではありません。

小説などの翻訳の難しさは、ただ単語を外国語から日本語に置き換えるのではなく、日本文にしたときにどれだけ読みやすいか、どれだけ内容が伝わるかにあります。Webで翻訳や他の翻訳会社などへ小説を翻訳する際は、事前にいくつかのことを翻訳家に確認するようにしましょう。そのいくつかについては、またの機会にお話しします。

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