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挫折をバネに英語学習に取り組んだ福沢諭吉の英語勉強法

啓蒙思想家で教育者でもあると同時に、優れた通訳・翻訳者でもあった福沢諭吉。お札に印刷された顔はよく知られていますが、いったい彼はどのようにして英語を勉強するようになったのでしょうか。今回は、福沢諭吉の英語学習の取り組み方についてご紹介します。

「近代教育の父」と呼ばれる福沢諭吉

1835年、中津藩の下級武士の家に生まれた福沢諭吉は、近代日本教育の礎を築くことに心血を注いだ人物です。彼が生まれたのは、身分制度のため、能力のある人材が活かされない時代でした。優秀な人材を育成できない環境を変えるために、福沢諭吉は意欲的に学び、活躍の場を広げていきます。

欧米訪問では銀行や保険制度などを学び伝え、日本の近代化に大きく貢献します。さらに、慶応義塾大学を創立しただけでなく、早稲田大学や一橋大学などの創立にも関わり、身分に関係なく、平等に教育を受けられる学びの場を作り上げました。

英語との出会い

子ども時代は読書嫌いだったという彼ですが、勉強に真面目に取り組むようになった途端に、めきめきとその頭角を現し出し、19歳の頃には長崎で蘭学を学び始めます。その後も、緒方洪庵の適塾で蘭学を学び続け、弱冠22歳で適塾の塾頭になりました。

家督を継ぐことよりも、勉学に励むことを優先した福沢諭吉でしたが、挫折を経験しなかった訳ではありません。江戸に出て蘭学を教えることになった彼は、ある日、横浜に出かけます。そこで、外国人たちにオランダ語で話しかけてみるものの、一向に通じないことにショックを受けます。なにやら、オランダ語ではない外国語で書かれた看板の字すら読めないことに、彼の自尊心は大きく傷つけられます。それが、福沢諭吉と英語の出会いでした。

それからというもの、英語を習得することに熱意を注いだ福沢諭吉。蘭学者の友人たちに英語を学ぼうと声をかけますが、最初はそれに同意する人はなく、英語学習は彼にとってまったくの孤軍奮闘となります。しかし、ついに蘭学者の原田敬策と共に英語を学ぶことになり、英蘭辞書を頼りに、手探りでの英語学習がスタートしました。

洋書の多読が上達のカギに

英蘭辞書を通して、福沢諭吉は英語とオランダ語が似ていることを知ります。そのため、英文の意味を理解することは難しくありませんでしたが、英語の発音がわかりません。しかしその問題も、軍艦奉行の従者としてアメリカに渡ることで「生きた英語」に触れ、解決されていきます。

初めての渡米後、ますます英語学習にのめり込んでいった福沢諭吉は、貪るように洋書を読んだといいます。難しくて自由自在に洋書を読めないことにもどかしさを感じた彼は、教授として学生たちに英語を教える傍ら、実は共に英語を学ぶ立場にあったと認めています。

しかし、多読の習慣は、彼の英語力向上に影響を及ぼしました。2回目のアメリカ訪問では、「初代アメリカ大統領の孫は、いまどこで何をしているのか?」と尋ね、「知らない」と返答されたことに衝撃を受けたそうですから、彼の英語力がかなり上達していたことがわかるのではないでしょうか。

福沢諭吉の英語力を高めたもの

熱心に英語を学んだ福沢諭吉ですが、彼の英語力を飛躍的に伸ばしたのは、「華英通語」の翻訳の仕事でした。初めてアメリカに渡った際、現地で調達した英華対訳の単語集「華英通語」を、英単語の発音と華語の訳語の日本語読みを加えて「増訂華英通語」として出版しました。

多読にしろ、翻訳の仕事にしろ、英語に触れる機会を可能な限り追求した福沢諭吉。手を伸ばせばすぐにあらゆる教材を手に入れることができるわたしたちが、彼の英語学習への真摯な姿勢から学ぶべきところは多いのではないでしょうか。

生涯学習という言葉が生まれてどれくらい経つのでしょうか。人は何歳になってからでも学習を始めることが出来ます。現在の様に世界の生活様式や秩序、覇権などが変わろうとしている時期だからこそ外国語を含め、いろいろな事を学ぶ必要があると思います。Webで翻訳の翻訳家もさまざまな分野を勉強しつづけております。今後世界がどのように変わるかは分かりませんが、日本では報道されていない重要な事が多々あります。各国のニュース記事を読んで、分からない内容はWebで翻訳で翻訳をご利用ください。

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