夫婦の会話が外国語?日本人女性初の海外留学生「大山捨松」とは

いまの時代、海外留学生に男女の差はありません。しかし、明治時代においては、女性の社会的地位は低く、海外留学に女性を送り出すなどもってのほかでした。そんな時代背景の中、日本人女性で初めて、海外留学生としてアメリカに渡った女性がいました。今回は、英語はもちろん、フランス語やドイツ語も話せたという明治時代の女性、大山捨松をご紹介します。

弱冠11歳で留学生になった捨松

捨松(幼名「さき」)は、会津藩の国家老であった山川家の末娘として生まれました。会津戦争に負けたことをきっかけに里子に出され、函館のフランス人家庭に引き取られます。それから数年後、明治政府は、未開の地を開発する方法を学ぶため、アメリカへの官費留学生を募集します。

捨松の兄、山川健次郎が留学生に選ばれたことで、山川家は西洋式の生活に慣れていた彼女をも女子留学生として応募させることに。その結果、捨松はわずか11歳で渡米することになりました。アメリカでは牧師のもとに身を寄せた捨松。右も左もわからない異国の地で、ホームシックにもめげず、黙々と勉学に励み英語を身に付けていきます。

地元の高校を卒業後はヴァッサー大学に進学し、学年会会長を務めたり、優れた学生しか入会を許されないシェークスピア研究会に入会したりなど、学生生活を謳歌します。卒業生総代にも選ばれるほど成績が優秀だった彼女は、政府から帰国命令が出ていたにもかかわらず、アメリカ滞在を延期し、看護婦養成学校へと通って上級看護婦の資格を取得しました。

華々しい経歴ながらも苦労が絶えず

約11年におよぶ留学生活を終えて帰国した捨松でしたが、日本では職探しに苦労します。というのも、彼女には漢字の読み書きが苦手という弱点がありました。アメリカ娘と影口を叩かれながらも、なんとか家庭教師の職を得た捨松。そんな彼女に、縁談話が舞い込みます。

お相手は、会津藩の宿敵であった薩摩藩の大山巌でした。しかも、彼はかつて砲兵隊長として、会津藩の領地に大砲を打ち込んでいた人物です。山川家は断固としてこの縁談を断りますが、大山巌はあきらめませんでした。

参議陸軍卿・伯爵となっていた大山巌は妻に先立たれ、夫人同伴の夜会に出席できないという悩みがありました。当時は、夜会や舞踏会が外交の大きな役割を果たしていたのだとか。そんな彼にとって、英語はもちろん、フランス語やドイツ語にも明るい捨松は、後添えにぴったりな女性に思えたに違いありません。

夫婦の会話は英語かフランス語

捨松はどんな人かわからなと返事もできないと、デートを提案します。しかし、デート中、大山巌が話す薩摩弁がまったく理解できず、会話に困ってしまいます。そこで、会話を英語に切り替えた途端、二人は意気投合することに。

大山巌は、捨松と同じく英語やフランス語を巧みに話し、外国の文化にも精通していました。こうして交際3ヶ月で結婚した二人は、誰もがうらやむ「おしどり夫婦」になりました。

結婚後は、婦人会活動や寄付金集めを行い、数々の慈善事業を行った捨松。同じく留学生で親友でもあった津田梅子が女子英語塾(現在の津田塾大学)を設立する際にも、ボランティアとして骨身を惜しまず尽力しました。

夢と希望が語学学習を後押しした

十代という多感な時期に、10年以上も海外で過ごした捨松。留学生時代も帰国してからも、悔しい思いをしたこともあるでしょう。しかし、北海道開拓のためにアメリカに留学生として派遣された捨松には、ゆくゆくは赤十字社の設立や日本の女子教育に携わりたいという夢がありました。

英語漬けの毎日が彼女の語学力を伸ばすのに大きく貢献したのは当然のことですが、夢と希望が語学学習の大きな動機付けになったはず。捨松のように海外留学するのは難しくても、モチベーションを維持することが語学学習に役立つことが理解できるのではないでしょうか。

語学力を伸ばすというのは簡単ではありません。ただ、大山捨松のようにモチベーションを維持し、毎日外国語漬けの日々を送れば、誰でも語学力は伸びます。実際にこのブログを読んでいる方も、日本語を不自由なく使えていると思います。多くの人は、小さい頃から日本語漬けの日々を送り続けていますので、日本語力が付いているのです。Webで翻訳の翻訳家も毎日のように外国語に触れ、自身の語学力を日々伸ばしております。翻訳が必要な時は、外国語漬けのプロの翻訳家にお願いしてみてください。

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