フランス文学翻訳家としての澁澤龍彦のあゆみ

 

三島由紀夫と深い親交があった澁澤龍彦。耽美主義の小説家として知られている彼ですが、じつは素晴らしい翻訳家でもありました。今回は、フランス文学翻訳家として活躍した澁澤龍彦についてご紹介します。

 

フランス語を習得するまで

耽美主義作家として有名な澁澤龍彦は、小説家になる以前は翻訳家として、その才能を発揮したといいます。1928年、銀行員の父と政治家・実業家の娘であった母の間に生まれた澁澤龍彦は、飛行機の設計者になるために旧制浦和高校理乙の理系ドイツ語クラスに進学します。

ところが、なぜか澁澤龍彦にはドイツ語が肌に合わなかったようで、第二次世界大戦後に文系英語クラスに転入することになりました。実際には文系フランス語クラスへの転入を希望していたものの、戦時中フランス語クラスは廃止されていたため、仕方なく英語クラスに転入したようです。しかし、しばらくして文系フランス語クラスが再開された後には、一級下の講義に潜り込んでフランス語を学んだといいます。フランス語クラスでは、フランス文学者およびフランス語翻訳家として有名な平岡昇から指導を受けました。

澁澤龍彦は学校でフランス語の講義を受けるにとどまらず、日本最古のフランス語学校である「アテネ・フランセ」に通ってフランス語習得に努めます。フランス語を学びはじめたばかりだった澁澤龍彦ですが、ゲルマン語のドイツ語は不得意だったにもかかわらず、ロマンス語であるフランス語はピタリと性に合った模様で、精力的に学習したおかげでみるみるうちにフランス語を身に付け、語学学校ではすぐに上級クラスに属するようになったのだとか。彼のフランス語習得への情熱は冷めることなく、時間を見つけては神田の古書店街でフランス語の原書を探し歩いたそうです。

■幾たびもの挫折からフランス語翻訳家へ

旧制浦和高校在籍中にある程度フランス語を習得していた澁澤龍彦ですが、フランス語への傾倒はやまず、東京大学文学部フランス文学科を受験します。ところが、二度受験に失敗して浪人生活を送った後、三度目の正直でようやく合格することに。卒業論文には、当時ポルノ作家と見なされていたマルキ・ド・サドの作品をテーマに選びましたが、価値を認められず彼に研究者としての道が開くことはありませんでした。

周囲からの理解を得られなかった澁澤龍彦は、なんと就職活動でも躓くことになります。度重なる挫折を味わった澁澤龍彦ですが、就職試験の失敗後、肺結核に感染していることが発覚して就職そのものをあきらめざるを得ませんでした。

しかし、澁澤龍彦は、浪人時代に着手しはじめたフランス語翻訳に活路を見出し、1954年には初の訳書である「大跨びらき」を完成させます。少年期と青年期の狭間で大人たちに翻弄され、挫折し傷つくジャックの成長を描いた詩人ジャン・コクトーの青春小説は、明瞭かつみずみずしい澁澤龍彦の翻訳によって日本に紹介されることになりました。

澁澤龍彦とフランス文学の翻訳

日本にはじめてマルキ・ド・サドを紹介した人物として知られる澁澤龍彦ですが、じつはサド作品を翻訳したことで有罪判決を受けることになります。1959年、マルキ・ド・サドの「悪徳の栄え」を翻訳出版したことで、澁澤龍彦はわいせつ物頒布等の罪に問われることになり、罰金7万円の支払いを命じられました。

これがいわゆる「悪徳の栄え事件」ですが、問題のマルキ・ド・サド作品は、わいせつな箇所を削除したバージョンが出版されることに。しかし、事件後も、澁澤龍彦がフランス文学の翻訳を止めることはありませんでした。自らも小説家として活躍するようになった澁澤龍彦ですが、フランス語翻訳の分野で高く評価されており、「フランス関連のことなら澁澤に聞けばすぐにわかる」とまでいわれていたといいます。

 

皆さんは一つの外国語が得意な人は、他の外国語もすぐに習得できるって思っていませんか?もちろん、そういう人もいますが澁澤龍彦はドイツ語はダメだったようです。好きな言葉や好きな本などがあるとその言語を覚えやすいかもしれません。英語を勉強しても全然うまくならないと悩んでいる方は思い切って他の言語を勉強してみても良いかもしれませんね。Webで翻訳の翻訳家の中には言語が好きで好きでしょうがないという人もおられます。翻訳が必要な時な、言語が大好きな翻訳家に頼んでみてください。

 

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